僕はにわかおじさん

アニメ・古めのゲーム・雑文、ときどき漫画・特撮について

貧困問題叩きと叩いた人を非難する人

どうも、今回はマジメな話です、いつもの馬鹿話を期待した人には申し訳ない。しかも、長い文章になったので、引き返すなら今です。この文章、今日書いたものではないです。あげるかどうか大分迷いました。旬を過ぎた話題であり、普段はくだらないことを書いている自分のブログにのせるべきことなのか。でも、このことについての記事を見るたびに違和感を感じ、さらに、これについての色々な文章を読んだことによるモヤモヤを吹っ飛ばしたくてこれを書いて載せることにしました。

 

で、これだけは理解してください。これは、あくまで一個人の見解です。こんな意見があるのかと考えられる方はこの後もお読みください。

 

NHKの貧困女子学生問題についてです。ちなみに私はこの放送を実際に視聴したわけではありません。自分なりに情報を集めて書いたものになるので、間違いがあったらご指摘をお願いします。とりあえず事の経緯から説明します。

 

学費を工面することが出来ず、自身の進学が叶わないある高校3年生をNHKが番組で取り上げました。番組では家がどのような状態か、どういった生活を送っていたか(クーラーがない、パソコンが買えない)などのことを紹介。しかし後日、この学生が好きな映画を6回見たり、7800円のコンサートチケットを買っていたり、好きな漫画やそのグッズを購入し散財していたことなどが自身のツイッターから判明し、「貧困ではない」と感じた視聴者などから苦情が寄せられ問題となりました。

 

そしてここからが本題です。この「貧困ではない」の意見が間違っていると擁護する人が現れました。これを主張する人々(主にネットなどで記事を書く人)の多くは、「貧困に対する定義を取り違えている」とのことでした。(私見です)

 

まず、私が思ったことは「なるほど、そういう勘違いをしていることはあるな」でした。しかし、その後の主張を見るとなんだか、変な違和感を感じました。確かに今回、「貧困を自分自身で勝手に定義し、そこから外れると貧困ではない」という考えは偏狭といわれるものかもしれません。貧困というものを勘違いし、非難している人ももちろんいるでしょう。しかしね、今回の事で怒ったり、叩いたりしている人たちの理由って

それだけじゃない

 と思うんですよ。どうも擁護側の意見ってこの「貧困に対しての偏見がある」の一点にしぼった主張しかしていないように感じました。その一点のみの主張で、叩いている人全てが間違っているかのように捉えられる意見は私にはどうやっても受け入れられませんでした。そこで、自分なりの考えではありますが、その他の叩いている理由を以下に記述したいと思います。

 

朝日新聞の慰安婦報道問題など、過去様々なことがあって、報道というものに対して世間が疑いの目を向けていること、さらにNHKでいえば受信料を徴収して放送していることに反感を持っている人がいます。それらがバックボーンにあり、怒りを増幅させていることがあること。

②お金がなくて進学の夢が叶わないといっているのに、それに対して夢のためにお金を貯めるなどの努力が見えないことへの違和感(これは別に少しの贅沢や趣味を許さないということではありません)

③前述の、努力が見られないと他者に思われる行動をしていたにも関わらず、支援を求めるという行為への怒り(厳しい言い方をすると楽してお金をもうけようという行為に見えたこと)

報道番組でありながら過度な演出をしたと想像させるものを作ったこと。実際に演出があったかは分かりませんが、そのように捉えた人がいるのは事実です。それにより騙されたと感じ、怒りにつながった。

⑤もっとこの問題に対して適性にあった人がいたかどうかの判断、さらに、事実関係の把握をしなかったのではないかという番組作りをした人たちの怠惰への怒り

 

他にもいろいろあるでしょうが、これらの理由が考えられます。この中には前述の「貧困に対する偏見」があるという人もいるかもしれません。しかし、そう考える人にこれだけは言っておきます。

共感が得られない行為に対して理解を求めるのは至難の業です。

で、以上の事から分かるように、この問題で怒っている人と言うのは貧困女子学生だけでなくこれを報道したNHKにも怒っているんですね。この問題の発端は、「学生が貧困を装って実は贅沢をしているではないか」という事から始まりましたが、問題の根っこは「報道の在り方」にあると私は考えています。なのに擁護側の意見は貧困の認識のみを取り上げていました。違和感の正体はこれでした。

論点がずれている(あくまで個人の意見です)

 

 

 あーすっきりしたというわけでこの記事をかきました。でもね、まだいいたいことがあります。

一つ忘れてはいけないことは、擁護側の意見自体も一理あるということです。要は、否定側も擁護側両方納得できる部分はあるということ。

なんか、すぐこれが正しいとか間違っているとか言う人がいますが

学校のテストじゃないんだから正解、不正解なんてないよ。

 

 私は、物事において、正しい、間違っているで論じるのは基本的におかしいと思っています。無論、殺人などの行為のように明らかに間違った行為は存在し、中には例外はあるのでそういったものは除きます。では、何を基準に判断しているかと言うと

主張していることが妥当と感じるかどうかです、世の中これが100%正しいなんてことはそんなにありません。

だからだいたいの主張には穴があり、完璧な物などないのです。だから私は小さな穴を責めるような主張をする奴は嫌いです。

その主張の根拠、物事を裏付ける証拠、納得させる何かがどれだけあるかだけです。その妥当性が高い方を信じて行動するだけです。ただ妥当なだけで良い結果を生むのかは分かりません。時には悪い結果を引き起こすこともあるでしょう。でもそれでいいと思っています。それを反省して進めればいいと思っています。だいたいその行為が正しかったかどうかなんて歴史となって過去を省みることができるようにならないと無理ですよ。

話が少しそれてしまったorz 結局、なにが言いたかったというと

自分に対しての反対意見にだってどこかしら正しい部分はあり、それを受け入れる度量はなくしたくないものだってことです。

 

人は常に何らかの形で間違ったことをしているということ、その方向を少しでも変えるためには、これが正しい、間違っているという固定観念は邪魔になるってことです。

 

あー真面目な話な上に長い文章だ・・・とても日にアクセスが1件しかないブログの主が書く事じゃねえ。

で、最後にもう一度、言っておきますがこれは全部、私の個人的な意見です。どういう風に見えたかは分かりませんが、こう考えるべきだとかは一つも思っていないということだけはご理解ください。相容れないことがあるのは当たり前、ただ、

こういう考えの人がいるんだな

 

 という風にだけ考えてくれると大変助かります。

 

ここまで読んでくれた君はえらいっ!ありがとう!